ADHDの僕はただ単に1人でいることが好きなのかもしれない
以前、発達障害は孤独を気にするなという記事を書いたが、ADHDの僕は基本的に休日は1人で過ごしている。理由は人といると、ペースがかき乱されて疲れるからだ。
以前の記事で書いたように、すでにフルタイムで仕事をしているだけでも疲労困憊な状況。
休日に予定をいっぱい組んだり、朝早く誰かと会ったりすることは僕にとってはとてもしんどいことなのだ。
今回は何かのテレビ番組でみた、孤独な猫好きのおじさんを見て、思うところがあったので、記事にようと思う。
ADHDは嫌わたくないあまり神経をすり減らしていく
なぜしんどいかと感じるかというと、ADHDは実は空気を読みすぎたり、周りの人の目を気にしすぎている面がある。
よく、ADHDは空気が読めないと言われているけど、これは半分正解であり、半分間違っている。衝動的にやらかすだけで、決して空気が読めないわけではないのだ。
ADHDが空気が読めないとされる原因は2つ。
突発的に衝動的に思ったことを口ばしる傾向があることだ。
これにより、思いがけず、人を傷つけたり不快にさせたりするケースが多々ある。
自覚症状がある人は、気をつけている人がほとんどだろうと思うが、それでも何かの拍子にやらかしてしまうことはよくあることだと思う。
もう一つは、何かの拍子に他の事に気を取られてしまって、話を聞きそびれてしまい話について行けなくなってしまうことだ。
例えば大事な話の途中に、急に直近で作業していた仕事が気になり、話に意識が集中できず、こいつ人の話聞いてるのかと思われるところだ。(実際聞いてないけどね・・・)
このように、ADHDは突発的なことをしゃべったり思いつたりしてしまい、場の空気を悪くしてしまう傾向があるが、それによって人を傷つけたり怒らせてしまうことは重々承知している人も多い。
自覚症状がある分、人に嫌われまいとするあまり、様々なことを気にしすぎて精神をすり減らしてしまうところも問題だ。
人に嫌われないように接するのはこの障害をうまく乗り越えていくためには、必須のスキルだろうけど、あまりにも人の顔色をうかいすぎて神経が過敏になってしまう。
ADHDとして生まれてきた以上、注意力散漫のせいでひどい目にあうことも多く、そうした散々な思い出は普通の人以上に多く、そうした経験から嫌われた経験も多々あるだろう。
そうした背景から、人に嫌われたくないという感情が強くなりすぎていて、どんな人にも嫌われたくない、嫌われるのがとても怖いと思うようになる。
でも、そんなことはありえない。当たり前のことだけど、自分の好きなってくれる人ばかりではないからだ。
そんな風に、全ての人間に対して気を使いすぎているので、人間と触れ合うこと自体に疲れてしまう。
基本的にADHDは自分のペースを乱されるのが嫌い
もともと発達障害は自分のペースを乱されるのを極端に嫌うところもある。
例えば僕の場合は、自分の中で休日のスケジュールなんかはある程度、勝手に作られていく。
今日は何時まで寝ようとか、昼飯はこの時間に作りたいなとか、何時までにこの場所に行こうとか。
それを人に邪魔されたり、乱されたりすると、とてもイライラする。器が小さいだけかもしれないが。
もともと学生の頃もそんな感じだったけど、社会人になってからはそれが顕著になってきた。
社会人はとにかく、時間にゆとりがない。学生は時間にゆとりがあったから、そこまでストレスにならなかったのだ。
そういった人間が、出来る出来ないは別として、家族を持ったり、誰かと共同生活すること自体に向いてないと思う。
きっと些細なことにイライラするだろう。例えば、冷蔵庫のヨーグルトの置いた位置ひとつとってもイライラするかもしれない。そんな人は1人であるべきな気がする。
最近テレビで見た猫好きの孤独なおじさんに自分を重ねた
最近、何かのテレビ番組で、天涯孤独の猫好きなおじさんを見た。
そのおじさんは、父親と母親を亡くしてから30年ぐらいずっと1人で生きてきたという。
もちろん独身で、友達は猫しかいない。それでも、今が十分楽しいと言っていた。
周りのナレーターや芸能人たちはなんだか寂しそうに見ていた。哀れな人を見るように。でも、正直なところ僕はそのおじさんにとても共感していた。
なぜなら、多分そのおじさんも年齢や外見や性格は全く違うけど、きっと僕と同じような人種だから。
そのおじさんは1人でも全く困らないと言っていた。
自分のペースで生きたいと言っていた。そのおじさんは、お金もなく、ボロアパート住まい。友達も、家族もいない。
日本に住んでいる、大抵の人は気の毒に思うレベルだろう。
それでも、そのおじさんは幸せそうにしていた。その目は嘘じゃなかった。
独身者が世間的なステータスが低いのは仕方ない
世間的には孤独はとても辛いということにされている。老後には孤独死という言葉が付きまとう。
でも、人間はこの世から去るときはみんな孤独だと思う。それはたとえ愛する家族に看取られてもだ。
どんな愛されている人も、どんな孤独な人も、それは平等に訪れる。
世間的には気の毒な最後になるかもしれないが、結局のところ、本人がどう思うか次第だろう。
結婚しない人は男性は4分の1ぐらいいるといわれている。
おそらく僕もその1人のだろう。その4分の1の人たちは、お金がなくて結婚できないのか、出会いがなくて結婚できないのか、1人の方が気楽だからなのかは人それぞれ事情が違うけど。
日本においては、誰でも結婚をするという事態は終わった。
僕のように、共同生活に適性が無い人が、というか、そもそも社会に適性が無い人が、無理にそれをしても迷惑をかけてしまうだけだろう。
こんな風に肯定的に書いているし、世の中が少しずつ変わってきたけど、基本的に子供は社会の繁栄に、そして人間の反映に繋がるのだから、それができない人間はいつの世の中でも白い目でみられるのは仕方ないことだ。
だから、社会的なステータスも低くても、しょうがないと思っている。
新しい命を育てているということは、どんな時代にも大人に課せられた使命だから。
でも、その使命を僕はやり遂げられそうにない。
以上、ADHDの僕はただ単に1人でいることが好きなのかもしれない、でした。