ADHD的LIFE

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発達障害の習い事について幼少時代を振り返りつつ考える

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大抵の親は何かしらの習い事を子供に習わせる。

それは、子供の将来に向けての投資だ。身体を鍛えるため、精神を養うため、コミュニケーション能力を高めるため等々・・・。

理由は様々だろうけど、親というものは、子供に幸せになってほしいと思うのが常なのだ。僕は親になったことがないので、本当の意味では分からないけど。

ましてや、自分の子供に発達障害があるってわかったら、得意分野を探してあげたいと強く思うだろう。

子供に限った話ではなく、それは大人も同じで自分への投資というものを何らかの形で続けなければならない。

ただ、何かを学ぶという事は、時間やお金がどうしてもかかるものだし、どうせやらせるなら失敗したくないとは誰もが思う事だろう。

今回は自分の幼少時代を振り返りつつ、発達障害の習い事について考える。

 

習い事の本質とは何かを考える

習い事は一般的に良いことだとされている。

ピアノ、英語、サッカー、習字、スキー、と、適当に並べただけでも、なんか良いイメージがある。ぶっちゃけ、大抵の習い事は、習い事をしてるってだけで何だか素晴らしいことをしているようにまで感じる。

今、適当にあげた中で一流のプロになれれば、それはそれはすごい成功者だ。
一流と言わなくても、それだけで飯が食えるとなれば、十分すぎるレベルだろう。

でも、当たり前のことだが、そんな将来がまっていることは99.99%無い。
それは一握りの才能がある人が、必死に努力をした結果なのだ。

じゃあ、習い事なんかしなくてもよくね?時間やお金を使うの無意味じゃね?って思うかもしれないが、それはそれで極論だと思う。

前述したとおり、別にその分野のプロになれなくても、精神が鍛えられたり、健康になれたり、習い事を通じて友達ができたりと、むしろそちらのほうが主目的なのが大半だ。

 

一つの目的として習い事は才能という温泉を堀探すもの

僕は、習い事の一つの目的として、才能を探ぐるべくするものだと思う。
それは、才能という温泉を探し当てるようなイメージだ。

具体的に言うと、子供の頃に習い事をさせるのであれば、それはどんな分野でも構わないと思っている。

何故なら、子供自身が、何が出来て、何が出来ないかわからないから。
具体的に言うと、自分の能力が自分でも把握できていないからだ。

大人になったら経験則で、これは苦手分野だからやめようとか、これは興味があるからやってみてもいいかなって、判断できる。

子供にはそれが出来ないから、サッカーが得意かどうかもわからないけど、サッカーアニメの主人公に憧れたからとりあえずやってみた。こんなんでも全く問題ない。

結果、まったくもって試合に出れず、何ならリフティングすら身につかなかった。
そんな残念な結果でもいいと思う。

ここで大事なのは、サッカーの才能はなかったということが判明したことだ。
だから、全然無駄じゃない。出来ないことが分かったという事はすごい収穫なのだ。

サッカーの温泉は出ないと分かっただけでも、自分のことを知れたのだから。

 

掘っても温泉がでなかった場所を掘り続ける必要はない

頑張って掘った温泉がでなかったら、違う温泉を探す必要がある。

先の例はサッカーだったので、サッカーを大枠で見ていくと、サッカーというものは球技に属されたスポーツで、バレーボールも野球も、バスケもそうだ。これらは全く違うルールであっても本質的には、身体の動かせ方や頭の使い方は実はとても近いものだ。

何となくだが、サッカーが得意な人はバスケもうまい人が多いってのは経験則でわかると思う。そういう人は球技というカテゴリー自体がうまいと言える。

つまり、球技というカテゴリーに才能が無さそうであれば、次の習い事は球技を避けるべきだという事。

温泉を掘りに行って、ここじゃない!全然出ない!ってなった場合、すぐ近くにまた温泉を掘るのはアホの極みだ。だって肝心の源泉が近くにないんだもの当たり前の話。

それなら、離れた場所で温泉を掘ったほうがいい。だから、サッカーがダメなら次に習うものはバスケでは失敗する可能性が高い。

これは勉強も同じで、理数系、文系なんて分類があるように、教科自体はそれぞれ違うものだが、実は考え方は似た面があるというもの。

というか、世の中の殆どのものは大体ジャンル分けされている。共通要素が近いものは情報を整理する上でそうなるからだ。
そして、人はそのジャンルごと得意だったり、苦手だったりする場合が多い。

ちなみに僕はスポーツは全般的に苦手だが、ウィンタースポーツというジャンルに属するものは人並みにできたりする。(スケート・スノボー・スキー等)
運動音痴の僕だが、すべてのスポーツができないという訳では無いという事だ。

このカテゴリーを意識するということは、非常に大切なことで、仕事選びなんかはまさにそうだ。例えば営業というカテゴリーが本当は苦手なのに経験があるからと、頑なに営業にこだわって失敗して転職しまくる人とかいるよね。

全く才能が無いものにこだわっても良いことはあまりない。
それよりも発達障害は、出来そうなことをできるだけ早く探すべきだ。

 

人並みにできるという事は価値があること

カテゴリーを意識すると、ぼんやりとだが、子供が何が得意な傾向があって、何が出来ない傾向があるのかが見えてくる。

できるという度合いは、県大会に出場できるレベルでなくとも、グループの中で一番というレベルでなくてもいいと思う。

人並みにできるレベル、平均でもいい。

もちろん、できればいいに越したことは無いが、人並みにその分野のことがこなせれば、とりあえず入場券は貰える。

入場券を貰えれば、とりあえず努力すれば人並み以上にはなれる可能性があるということ。そこで頑張ることができれば、とりあえず自信にはつながる。

それだけでもいいんだ。プロになれなくても、県大会に出場できなくても、レギュラーになれなくても。

発達障害に足りないものは成功体験だと思う。小さい失敗の繰り返しで、どんどん自信がなくなって自分は何もできない人間だと思い込んでしまう。

それと同じように、小さい成功を繰り返していけば、自信がついていって、この分野なら頑張ることが出来るって思考になる。

発達障害の度合いにもよるが、僕は本当にダメダメなポンコツで色々なことでスタートラインにすら立つことができなかった。

剣道を習えば、毎回試合でボロボロに負けて、もう自分には向いてないって判っていたのに、親は辞めさせてくれなかった。
全く興味が無くて、辞めたかった英語教室は、全く役に立たず、学校の通信簿では常に5段階中2だった。

そんなんだから、自分に自信が持てなくなった。

もちろん挫折を味わうのも成長するには大事だと思うけど、発達障害は人生において挫折する回数が半端ないので、無理に挫折を習わなくてもいい。

子供時代の僕はとにかく、失敗ばかりするから、何をやっても人並みにこなせなくて苦しくて、生きている価値なんてないんじゃないのか?って思っていたくらいだったし。

僕の場合は幸い、高校卒業後には自分がなんとかできそうな分野を見つけられることが出来て、今でも自分のことはポンコツだとは思うけど、そこまで深刻には思わなくなった。

 

無理に何かを習わせる必要はないんじゃないか?

ここまで長々と書いていて、思ったことだけど、結局何かを習わせるって、子供から興味を示したりするものがあったりする程度のものでいいんじゃないか?ってこと。

きっかけは親であっても、本人が乗り気であれば構わないが、無理やり続けさせるようなことは、子供に負担がかかっているかもしれない。

発達障害は自分が好きなことには頑張れるので、何か一つでもいいので得意分野を見つけて自信をつけるのが大事。

 

以上、発達障害の習い事について幼少時代を振り返りつつ考える、でした。