ADHD的LIFE

ポンコツ管理人による世の中にいる5%のポンコツな人達向けの誰得ポンコツブログ

ADHDの僕はただ単に1人でいることが好きなのかもしれない

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以前、発達障害は孤独を気にするなという記事を書いたが、ADHDの僕は基本的に休日は1人で過ごしている。理由は人といると、ペースがかき乱されて疲れるからだ。

以前の記事で書いたように、すでにフルタイムで仕事をしているだけでも疲労困憊な状況。

 

owaterune.hatenablog.com


休日に予定をいっぱい組んだり、朝早く誰かと会ったりすることは僕にとってはとてもしんどいことなのだ。

今回は何かのテレビ番組でみた、孤独な猫好きのおじさんを見て、思うところがあったので、記事にようと思う。

ADHDは嫌わたくないあまり神経をすり減らしていく

なぜしんどいかと感じるかというと、ADHDは実は空気を読みすぎたり、周りの人の目を気にしすぎている面がある。

よく、ADHDは空気が読めないと言われているけど、これは半分正解であり、半分間違っている。衝動的にやらかすだけで、決して空気が読めないわけではないのだ。

ADHDが空気が読めないとされる原因は2つ。
突発的に衝動的に思ったことを口ばしる傾向があることだ。
これにより、思いがけず、人を傷つけたり不快にさせたりするケースが多々ある。

自覚症状がある人は、気をつけている人がほとんどだろうと思うが、それでも何かの拍子にやらかしてしまうことはよくあることだと思う。

もう一つは、何かの拍子に他の事に気を取られてしまって、話を聞きそびれてしまい話について行けなくなってしまうことだ。

例えば大事な話の途中に、急に直近で作業していた仕事が気になり、話に意識が集中できず、こいつ人の話聞いてるのかと思われるところだ。(実際聞いてないけどね・・・)

このように、ADHDは突発的なことをしゃべったり思いつたりしてしまい、場の空気を悪くしてしまう傾向があるが、それによって人を傷つけたり怒らせてしまうことは重々承知している人も多い。

自覚症状がある分、人に嫌われまいとするあまり、様々なことを気にしすぎて精神をすり減らしてしまうところも問題だ。 

人に嫌われないように接するのはこの障害をうまく乗り越えていくためには、必須のスキルだろうけど、あまりにも人の顔色をうかいすぎて神経が過敏になってしまう。 

ADHDとして生まれてきた以上、注意力散漫のせいでひどい目にあうことも多く、そうした散々な思い出は普通の人以上に多く、そうした経験から嫌われた経験も多々あるだろう。

そうした背景から、人に嫌われたくないという感情が強くなりすぎていて、どんな人にも嫌われたくない、嫌われるのがとても怖いと思うようになる。 

でも、そんなことはありえない。当たり前のことだけど、自分の好きなってくれる人ばかりではないからだ。

そんな風に、全ての人間に対して気を使いすぎているので、人間と触れ合うこと自体に疲れてしまう。

 

基本的にADHDは自分のペースを乱されるのが嫌い

もともと発達障害は自分のペースを乱されるのを極端に嫌うところもある。

例えば僕の場合は、自分の中で休日のスケジュールなんかはある程度、勝手に作られていく。

今日は何時まで寝ようとか、昼飯はこの時間に作りたいなとか、何時までにこの場所に行こうとか。

それを人に邪魔されたり、乱されたりすると、とてもイライラする。器が小さいだけかもしれないが。

もともと学生の頃もそんな感じだったけど、社会人になってからはそれが顕著になってきた。

社会人はとにかく、時間にゆとりがない。学生は時間にゆとりがあったから、そこまでストレスにならなかったのだ。

そういった人間が、出来る出来ないは別として、家族を持ったり、誰かと共同生活すること自体に向いてないと思う。

きっと些細なことにイライラするだろう。例えば、冷蔵庫のヨーグルトの置いた位置ひとつとってもイライラするかもしれない。そんな人は1人であるべきな気がする。

 

最近テレビで見た猫好きの孤独なおじさんに自分を重ねた

最近、何かのテレビ番組で、天涯孤独の猫好きなおじさんを見た。

そのおじさんは、父親と母親を亡くしてから30年ぐらいずっと1人で生きてきたという。

もちろん独身で、友達は猫しかいない。それでも、今が十分楽しいと言っていた。

周りのナレーターや芸能人たちはなんだか寂しそうに見ていた。哀れな人を見るように。でも、正直なところ僕はそのおじさんにとても共感していた。

なぜなら、多分そのおじさんも年齢や外見や性格は全く違うけど、きっと僕と同じような人種だから。

そのおじさんは1人でも全く困らないと言っていた。

自分のペースで生きたいと言っていた。そのおじさんは、お金もなく、ボロアパート住まい。友達も、家族もいない。

日本に住んでいる、大抵の人は気の毒に思うレベルだろう。

それでも、そのおじさんは幸せそうにしていた。その目は嘘じゃなかった。

 

独身者が世間的なステータスが低いのは仕方ない

世間的には孤独はとても辛いということにされている。老後には孤独死という言葉が付きまとう。 

でも、人間はこの世から去るときはみんな孤独だと思う。それはたとえ愛する家族に看取られてもだ。

どんな愛されている人も、どんな孤独な人も、それは平等に訪れる。
世間的には気の毒な最後になるかもしれないが、結局のところ、本人がどう思うか次第だろう。

結婚しない人は男性は4分の1ぐらいいるといわれている。
おそらく僕もその1人のだろう。その4分の1の人たちは、お金がなくて結婚できないのか、出会いがなくて結婚できないのか、1人の方が気楽だからなのかは人それぞれ事情が違うけど。

日本においては、誰でも結婚をするという事態は終わった。
僕のように、共同生活に適性が無い人が、というか、そもそも社会に適性が無い人が、無理にそれをしても迷惑をかけてしまうだけだろう。

こんな風に肯定的に書いているし、世の中が少しずつ変わってきたけど、基本的に子供は社会の繁栄に、そして人間の反映に繋がるのだから、それができない人間はいつの世の中でも白い目でみられるのは仕方ないことだ。

だから、社会的なステータスも低くても、しょうがないと思っている。
新しい命を育てているということは、どんな時代にも大人に課せられた使命だから。

でも、その使命を僕はやり遂げられそうにない。

 

以上、ADHDの僕はただ単に1人でいることが好きなのかもしれない、でした。

大抵の人は自分の知らないことを調べないからそこにチャンスがある

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最近、ビットコインの暴落がテレビで報道された。

うちの親父は、ビットコインなんてものは詐欺だと言っている。

ブロックチェーンがどうのこうのだ、脱中央集権がどうのこうのだなんてことは、もちろん知らないし、仮想通貨のことなんて一切調べもしていない。

自分には、よくわからないものだから、よくわからないままに詐欺だと言っている。

 

自分で調べるという、習慣が無い人

そもそも、うちの親父は、というか、大部分の人は自分で調べるということをしないのだ。判らないことは調べるという発想や習慣がないから。

例えば、仮想通貨を詐欺と言うなら、これこれこう言う理由があって、だから詐欺なんだと納得いくように理論づけて考えたり発言するべきだ。

よくわからないまま、詐欺だと言ってしまうのは、考えることを放棄している。

別に、仮想通貨を擁護しようという訳では無く、それはスマホ、ケータイ、インターネット、パソコン、株、テレビゲーム、漫画・・・

例をあげればきりがないほど、こんなものは、クソの役に立たないとか、詐欺だとか言われ続けてきた。

でも、それらは生き続けている。いや、むしろ、なくてはならないものになっている。

もちろん、騒がれて失敗したものも沢山ある。セカンドライフとか、あんだけ騒がれたのに、オワコンだし。

ここで言いたいことは成功や失敗なんかではなく、自分で調べることの重要性だ。

 

自分で調べて考えることにより、経験値が積まれていく

考えてみれば、自分で調べること、自分で納得するという手順を踏むことはとても大事なことだ。

僕は仕事柄、よくパソコンについての質問を受ける。
その質問については、すぐわかるようなものもあれば、ちょっとググればでてくるようなものが殆どだ。

僕はちょっと調べてみますと言って、時間を貰い、Webサイトで筋が通っているサイトを見て、あたかも自分が知っていたかのように回答したり、パソコンの設定を変更したりする。

その作業手順や説明は、実際のところどうでもよく、結果に対して「ありがとう、助かったよ」とお礼を言われる。

僕も、所詮はWebサイトに答えを聞いているだけの人間だが、前者の人と違う点が一つだけある、それは「自分で調べてる」ということだ。

人に答えを委ねない。まぁWebサイトに答えを委ねてるというのはそうだけど。でも昔から、それは同じ。

例えば、昔は英語のスペルがわからなかったら、辞書に答えを求めていた。それがWebサイトに変わっただけだ。

同じ英語のスペルを調べるにしても、英語が判る人に、このスペルを調べて紙に書いておいてと人に頼む人と、自分で少しでも時間をかけて辞書を引いた人とでは、後者のほうが、経験値にはなるだろう。

だから、僕がググって答えを出した結論にせよ、僕に経験値は残る。「こういう時は、こうすればいい」という断片的な記憶が残り、次にその場面を迎えた時、解決に到達するのが早くなる。

 

昔よりも遥かに調べ事が簡単になった

昔は、自分で調べるという事自体は、本を読むくらいしかなかった。
極論で言えば、自分で調べる習慣が無くても、周りの人は殆どが自分で調べるという行為自体がてきなかったので問題無い。

今は違う。インターネットから情報の見極めは必要だが、瞬時に自分が知りたい情報について調べることができる。

そこでネット上だけの情報では足りなければ、本を買ってより深く掘り下げればいい。
その本だって電子書籍なら一瞬で買える。自分の足で本屋に出向かなくても、すぐ手元に情報が届くわけだ。

だから、探求心があって自分で物事を調べる人は、右肩上がりで経験値がつまれていく。そうでない人とは、比べ物にならないほどに。

 

物事を調べるという事は誰でもできる。発達障害でも

自分で調べるということは、発達障害という、クソみたいなハンデがあってもできることだ。
自分で考えて、調べることを「する・しない」という選択肢がそこにあるだけで、ドラクエの「はい・いいえ」と同じ。二択しかない。

時代とともに、自分が知らないことを調べる方法は常に変化してきた。

沢山の本が庶民でも気軽に買えるようなり、図書館ができて、インターネットができて、グーグルができて、スマホができて、今度はAIか。

未来がどうなるかなんて、予想もつかないけど、今後も多分変わっていくんだろう。

でも、絶対に調べるという行為はなくならない。
物事を探求することは人間が成長する過程で絶対に必要なものだから。

だから、その手段を使えるようにすればいい。これからPCやスマホに変わる新しい方法も、めんどくさがらずに、その時が来たら触ってみればいい。

変化をすることを拒めば、時代に置いて行かれる。インターネットを未だに触ったことが無い、お爺ちゃんみたいに。

そして、こんなにインターネットが発達した世界でも、自分で調べる習慣がある人は驚くほど少ない。

だからこそ、そこにチャンスがある。

自分で調べて行動できる人は本当に強いと思う。自分で考えて、答えを導ける人だから。

そして、それができる人は少ないということは、それができる人は、普通ではない、ということになる。

どうせ発達障害は普通じゃないという烙印を押された人たちだから、普通じゃないのなら、普通じゃないことを思いっきり、すればいい。

だって普通にしてても、幸せになれないでしょ?普通と言うレールから外れた、規格外の人たちなんだから。

なんか言っていることがよくわからなくなってきたからここで締めよう。

 

以上、大抵の人は自分の知らないことを調べないからそこにチャンスがある、でした。

働くことは辛くなくても問題ない。ゲームのように楽しく働ければいい

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2010年代に入ってから働き方について議論されはじめた気がする。

僕が社会人になったのはリーマンショック前の話だが、その頃は労働は素晴らしい、男は残業してナンボ、働くことが全てだという考えがまだまだ残っていた。

僕は、その当時からそうした働き方に疑問を持っていた。

疑問をもっていたが、口には出せなかった。だしたら、村八分にされるから、それが怖くて。

でも、世の中の価値観が変わってきた。やっぱりその働き方にみんな疑問を持っていたんだろう。

ブラック会社という言葉が浸透してきて、例のあの事件が起きてから、加速的に労働に関する価値観は変わった。

今では労働=悪いことという風潮になりつつあるような気がする。

 

何故労働は辛いのか、辛い必要はあるのか

日本では、働くことは辛くて当たり前という風潮が今でもある。あらゆる困難に耐えるのが求められて、それが美徳化されていた。

古い会社の体質は、やらなくてもよいようなことにこだわり、同じ手法にこだわる。

例えば、僕が昔勤めていた会社では、タッチパネルの画面部分を作成していて、入社したての僕は、それらの仕事をやっている間に単純作業が殆どで、自動化できることが分かった。

なので、業務を改善化するためにも、と思い、簡単なプログラミングをして80%くらいを自動化したのだが・・・。

社長からずるをしていると指摘され、今後はすべて手入力でやりなさいと言われた。
空気が読めずに、新入社員の分際で小細工をした僕に責任があると周りの先輩たちは言った。

その会社は残業が常態化していて、その作業も社員に残業代を払ってやっていた作業だったのに、社長がそんなこと言うんだから、お話にならない。

そんな日常が、日本の会社には未だに溢れていて、やらなくてもよい作業を手間をかけてやっているから、辛いのだ。

働くことが楽しくなれば問題ない

上の例をあげたように、しょうもない部分でストレスが溜まることが多いのが日本社会だ。

楽をするべきところは楽をすべきだし、何よりしょうもない作業の負担が少なくなれば、それは働くことが楽しいってことにつながるのではないだろうか。

とは言っても、働くことが楽しくなるなんてありえない、と思う人もいるだろう。
それは、苦労してお金を稼ぐのが当たり前だと小さい頃から、何度も何度も教わってきたからだ。

だから、辛くて当たり前という考えで思考停止している人はとても多い。
というか、自分もそうだった。働くことが嫌で嫌で仕方なかった。ニートになりたいと心の底から思っていた。

今はどうかと言うと、実はそうでもない。

勿論朝起きるのはめんどくさいし、通勤の運転もめんどくさいし、気が乗らないときもある。

それでも、今はわりかし仕事を楽しんでいるような気もする。

それはたまたま自分にあった職種につけたからとか、わりかし自分の裁量で仕事ができるとか、人に感謝されることが多いとか、頼られることが多いとか、色々な事情があるのだが・・・。

あれ、もしかして仕事って楽しい?と今は思っている。

数年前の自分から考えれば、ありえないことなのだが、働くということに価値を見出しているのだ。

 

ゲームのように楽しんで仕事ができるならそれが一番いい

本来、作業と言うものはつまらないものではない。
例えばRPGのレベル上げとかが大好きっていう人多いだろう。

それらは比較的、単純作業で全くお金にはならないけど、みんな喜んで遊んでいる。

あんな風に、苦痛を感じずに楽しんで作業すること、働くことって、きっと実際やろうと思えばできるのだ。
もちろん、完璧にはいかなくて、ストレスがたまることや、煩わしい人間関係なんかもあるかもしれないけど。

その為には、まず個人が興味がある仕事に就くこと、就けることが大事だし、世の中が理不尽な働き方を改善していけば、きっと働くということが楽しめる時代がくるんじゃないかと思う。

僕がこの記事で言いたい、たった一つのことは、本来は働くという事は辛いことではない。ということ。

じゃあ何故、働くことが辛いとみんな思っているのかと言うと、お金を稼ぐのは辛くて当たり前って価値観を植え付けておけば、労働者を、国民をコントロールしやすいからそうしているだけだ。

でも、その仕組みは終身雇用の崩壊や、インターネットによる情報の拡散などで壊れかかっているし、何より本当の意味では幸せになれないと思う。

だから、働くという事自体は悪ではないけど、働くことが現状辛いから、ニートになりたい、働きたくない、生きていても面白くないっていうネガティブな思考を作り出す

なので、働くという事がゲームをしている時のように楽しくなればいいんだと思う。
これから台頭してくるであろう、AIを活用したりして、つまらない部分はAIに丸投げしちゃえばいいじゃん。

毎日のかったるい運転は自動運転にでも任せて、読書でもしてればいいじゃん。

人間が楽しいと思えるような作業だけを人間がやればいい。

そんな世の中になれば、人はもっともっと身軽に生きていけるんじゃないかな。

 

以上、働くことは辛くなくても問題ない。ゲームのように楽しく働ければいい、でした。

ADHDは妄想の中に生きても、それは悪いとは限らない

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今回はコミPo!を導入してみました。
コミPo!素晴らしいね。絵心が限りなくゼロのオッサンがここまで、それっぽくなるなんて、ホントすごいと思う。
もっと流行ってもいいソフトだと思うんだけどね。値段も手ごろだし。
 
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とりあえず、この娘はADHDのエディーちゃんということにしよう。うん、そうしよう。今後は自分の代役として、気が向いたら色々と働いてもらおう。
え、なんでJKで女の子なのって?そりゃあ、お前、可愛いからだ!いい加減にしろ!オッサンでADHDのマンガなんか誰も見たくないだろ! リアルかもしれないけどさ・・・。
 
話が脱線しましたが、今回はADHDの妄想癖の話です。 
 

 ぼーっとしている時は大体何か別のことを考えている

注意力散漫な理由の一つに、妄想癖に原因がある、と思う。

と、思うといった曖昧な言い方になったのは、僕自体が常に何かを考えている面があるということ。

普通の人の定義は難しいけど、考え事や妄想をするといっても、それは「常に」では無いよね?多分。

その考え事や、妄想や想像も目の前の現実に対するもの、に的が絞られてると思うんだ。

例えば、会社の会議で「コストを削減するには~」ってお題が挙がったとき、「人件費が高い」とか「ここの工程に無駄がある」とか、そういう想像に集中できるのが普通の人なんじゃないかな。

でもADHDは、少なくとも僕は違う、例えばその議題を上げた人のネクタイが曲がってたりして、そっちに気を取られて、あれ、この人ネクタイ曲がりすぎじゃね?とか、どうでもいいことを何故か考えたりしてしまったり、酷い時には全く別のことを考えていたりする。

何か些細なことがトリガーになって、目の前のことに集中できない時がある。
空想の世界にトリップしているような感じだ。

それは周りの人から見れば、あいつ話聞いてんのか、とか、ぼーっとしすぎ、とか眠そうだな、とかそんな目で見られる。ようするにやる気がないように思われるわけ。

 

その妄想・想像・考え事は役に立ったり立たなかったり

僕はその気になれば、いくらでも妄想や想像、考え事ができる。

その考えるジャンルは多種多彩で、例えば、あらかじめ人と会う前に何を話そうとか脳内でシミュレートして、面白い話とかをまとめといておくとか、そんな実用的なものもあるし、仕事の段取りとかを考えておいたりもする。

その逆に本当にしょうもないこととか、記憶に残らないような、くだらないことをずっと考えてたりもする。

冒頭の4コマ漫画でエディーちゃんが洗車していたけど、それは僕が実際にやってたことで、その時は、この1年を振り返ったり、心の中で車にお疲れさまでしたとかつぶやいたりとか、そんなことを考えていたけど、大部分は忘れた。

 

何かをしながら色々思考できることは悪いこととは限らない

僕は昔から単純作業というものが得意だった。

何故なら、常に何かを考えながら作業できるから、時間が経つのがとても早く感じるからだ。

だから、交通量調査のバイトや、弁当のライン作業とかそんな普通の人が発狂するようなバイトも平気で長時間できる。

やったことはないけど、デパートのアドバルーンの監視や、警備の仕事なんかも、なんの苦もなく仕事ができるはずだ。

人としては色々とヤバいかもしれないが、それは長所の一つと考えてもいいだろう。

 

owaterune.hatenablog.com

 

そういえば、1年位前にコンビニでずっとバイトしていた人が芥川賞を受賞したことを思い出した。

 

この作者の村田さんは、ずっとコンビニで働いていて、不思議なことにその最中によくアイデアが沸くとテレビで言っていた。

村田さんが、ADHDだとかそんなことを言うつもりは全くないけど、なんとなくそれはわかる気がするのだ。

客がこない時間帯のコンビニで、品出しをしながら、脳内であれこれと考えて、それをメモして、文章にして具現化していく。そんな姿を想像した。

だから、並行しながら別のことを考えたりできるということは、悪いことばかりではない。

それを具現化して、本や漫画、ブログを書いたりすることもできる。
そしてそれは、きっとやろうと思えば、何らかの手段でできることなんだと思う。

 

思えばこの記事も車を洗車しながら考えていたことだ

ブログを書いたりするようになってから、ブログのネタの為にその妄想をすることが増えた。

この記事も何気なく洗車しながら、妄想をテーマに書こうとか妄想しながら考えていたわけだ。

今まで、そのしょうもない妄想は殆ど大部分を捨てる(忘れる)しかなかった。
ゴミでしかなかった。けど、こうして文章に変換してわずかながらでも、誰かに見られるということは、すこしだけ価値があるものになるかもしれない。

一昔前は、自分の思いを誰かに伝える方法は、ごく限られた手段しかなかった。
今はネットがあるから、文章にしたり、絵にしたり、動画にしたり色々と個人でできるようになった。

だから、その妄想は具現化できて、誰かに思いを伝えられる。やろうと思えば。
そう考えると、ほんの少しだけ救われた気がした。

以上、ADHDは妄想の中に生きても、それは悪いとは限らない、でした。

ノストラダムスの大予言に学ぶ人は生きるしかないということ

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昔、僕は生きている価値が無いなって漠然と思っていた。
思えば、小学生の時の僕はのび太くんのような存在だった。

スポーツはまるでできなかったし、ADHDのせいか忘れ物はしょっちゅうして怒られてたし、勉強はまぁ、可もなく不可もなくだったけど、小学生の頃って勉強できるやつより、スポーツできるやつのが圧倒的に上の階級にいるよね。

それでも、圧倒的に勉強ができて、学年一位みたいな存在なら、すげーってなるけど、僕は150人中75位とかそんな普通ど真ん中の存在で。

つまり、ただの極度の不器用で、運動音痴な落ちこぼれだったわけ。もちろん、ドラえもんは来ない。

 

ノストラダムスの大予言!はやく来てくれー!

僕が中学生くらいの頃は、世間はノストラダムスの大予言で大騒ぎしていて、よくテレビの特番で、ノストラダムスが7の月どうちゃらこうちゃらみたいな特集がされていた。

ネットはまだまだ、上流貴族の遊びだった時代だったのもあって、今よりずっと閉じられた世界で、今見たらバカみたいな番組も、案外みんな真剣に観ていた記憶がある。

中学生の僕はその特集の度に、「隕石落ちてこないかなー」とか「世界破滅しろ!」とか本気で思っていた。

本当に1999年7の月が楽しみで楽しみで、待ち遠しくて、どうせ人類滅亡するんだから勉強する意味なくね?とかわけわからん理論で宿題やらなかったくらい期待していた。

結果はこのとおりピンピンしてる。
それでも、ノストラダムス大先生でも間違いはある、数か月の狂いはあるかもしれない。1999年7の月が過ぎても、ちょっと期待してた。

でも、結局めっちゃ平和で何も起きなかった。
身近で起きた大きな不幸はペットのカメが脱走してどっか行ってしまったくらい。

ノストラダムスのくそ野郎はただの嘘つきだった。

世の中の落ちこぼれ達は落胆しただろう。

 

マヤ文明2012年、人類滅亡説

そういえば、こんなんあったね、ってレベルの話になっているけど、ノストラダム大先生の予言が見事に大外れになった後、メディアは次の話題を探した。

それがマヤ文明2012年、人類滅亡説である。

なんだっけ、もう調べるのもメンドクサイから、自分が覚えてるだけの情報になるけど、なんかマヤ歴が2012年までしかないらしくて、そのあと人類滅亡するんじゃね?っていうザックリとした内容だった気がする。

まぁ、でもノストラダムス大先生で煽りすぎたせいか、さすがにこれはあんまり取り上げられなかったね。

さすがの中学生の僕も、2012年とかそんな先のことは分かりませんってレベルだったし。

いつの間にかみんな存在を忘れてしまった滅亡論だった。

 

結局、ダラダラとこの先も生き残るわけで

まぁ今でいう、非リア充とか、影キャラとかそんな生活をしていた中学~高校時代の僕だったけど、その頃は割と二十歳になる前になんか交通事故かなんかにあって他界するんじゃないかと本気で思っていた。

なんとなく、普通のサラリーマンとして働いているという想像がつかなかった。
それはきっと、自分の能力を子供ながらにして分かっていたからだと思う。

なんだろう、自分の能力の無さが判っているから、破滅願望があったんだろうね。
まぁ思春期のなか、みじめな存在だったら無理もない。可哀そうな過去の僕。

でも二十歳を超えても、三十歳を超えてもこうして、くそみたいなブログを書いているわけだ。

つまり、人は何だかんだでよっぽどのことが起こらない限り、普通に時は流れていくものだと思う。

今の僕は40代のことは、なんとなく想像は出来るけど、50代、60代のことはあまり想像できない。

でもね、10代の頃の僕が働いている自分を想像できなかったのと同じように、50代、60代も想像は出来てないだけで、おそらく普通にやってくるということだ。

 

それなら、この先を少しでも楽に生きたい

当たり前のことを書いているけど、50代、60代はほぼ間違いなくやってくるだろう。

そして多分、僕は結婚をしない(結婚できない)だろう。とりあえず、そう腹をくくることにした。

でも、50代以降をがむしゃらに働いて生きるのは正直嫌だね。年金をもらえる年になっても働くなんて想像したくない。

その為には、今できることを色々とやることにした。僕みたいなポンコツにはこういったリスクもあるわけだし。

 

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もともと、僕はあまり物欲は無いし、勝手にお金が溜まっていくようなタイプの人間で、投資もちょっとかじっている。インデックスファンドしか買ってないけど。

ドルコスト平均法で積み立てNISAとidecoを毎月限界まで積めば、とりあえず50代60代で働かなくて済むと思う。よくわからん!っていう人に物凄く簡単に言うと、会社員ができる最強クラスの節税と投資だ。

30代から老後のことを考えるのは少し早いというかもしれないけど、その頃から準備していもいい気がする。

うまくやれればもっとはやく引退できるかもしれないし、そうじゃなくとも定年後も働かなきゃいけないなんて最悪すぎるだろ・・・。

どうせこの先も生きるわけだから、せめて老後くらい悠々自適にくらしたいものだ。

 

以上、ノストラダムスの大予言に学ぶ結局生きるしかないということ、でした。

 

「やらなくてもいい理由」は大抵は「やったほうがいいこと」でもある

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前回の記事、Googleから不正確な医療情報とみなされアクセス数が半減した話で書いた通り、このブログは先月に比べて大幅にアクセス数が減った。

ブログを書く人にとって、アクセス数というものは、一種のスコアみたいなようなもので、それが大幅にいきなり減るということは、やはりモチベーションに大きな影響が出る。 

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今回の件は正直言って、もうこのブログを放置してしまってもいいかなと思った。
なんだかんだで、今まで多少なりとも見てもらえたのは、運がよかっただけなんだと、そう思うと、どうでもいいかなとも思えた。

 

気づいたら、やらなくてもいい理由を作っていた

僕のような中途半端な意思の人間は、ちょっとでもめんどくさいことや理不尽なことに直面すると、諦めてしまう。

今回は、Googleの件が引き金になっただけで、これが例えば仕事が滅茶苦茶忙しくなったりとか、書くこと自体に疲れたとか、他に興味があることができたとか、そんな理由でもブログなんてものはいくらでも辞めるだろう。

それは、きっとブログ以外でも同じで、仕事や勉強、スポーツ、あらゆることもそうだ。

やらなくてもいい理由。

そんなものはいくらでも作れるし、今までも作ってきた。

うまく言葉では説明できないけど、世の中の成功している人たちは、やらなくてもいい理由に直面したとき、それをうまく乗り越えていると思うんだ。

だから、大抵のやらなくてもいい理由というものは自分が作り出しているにすぎない。

でも、今まで生きていた経験上、大抵のことは、本当はやったほうがいいことなんだ。

それは例えば、コンビニでいつも買っているものをスーパーでまとめ買いしたほうがいいとか、ノンブランドのものと大して変わらないのにブランドものをなぜか買うとか、そんな些細なことも含めて。

やらなくてもいい理由というものは、きっとやったほうがいいことでもある気がするのだ。

 

自分にとってブログはやったほうがいいことでもある

自分にとってブログを書くという事は様々な意味があることだ。

趣味と考えれば、文章を書くことは好きな部類だし、お金はかからないし、むしろ少しはお小遣いが増える。

何かひらめいたり、感じたことを、思考を整理するために書きのこしたりもできるし、文章力を書くスキルも向上するし、メリットのほうが大きい気がする。

別にそれで生活しているわけではないから気が向いたときに書いたりするだけでもいいわけだし。

 

今後は雑記的な記事も書いていこうかな

このブログのコンセプトはADHDの自分が発達障害について感じたこと、調べたことを記事にしていく、というものだった。

だけど、前回書いたように、それらの記事は書いても書いても、大手専門サイトが優先されて、Webに残るものではなくなる。

他にブログを開設して、そっちで色々と他のことを書いたりしようかなとも思ったけど、一からブログを育てるのは超めんどくさい。ありがたいことにまだ見に来てくれる人は一定数いるわけだし。

なので、いっそのこと、色々と雑記的な記事も書いてしまおうかなとも思う。好き放題色々とアホな記事を書くのも面白い。

そう考えると、自分で勝手に考えたコンセプトをバカみたいに守るのもあほくさく感じた。これもある種のやらなくてもいい理由の一つだっただけだ。

というわけで、本ブログは方針転換するかもしれません。気が向いたら応援してやってください。

 

以上、「やらなくてもいい理由」は大抵は「やったほうがいいこと」でもある、でした。

Googleから不正確な医療情報とみなされアクセス数が半減した話

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2017年12月7日以降、アクセス数が半減した。
これまでも日によってはアクセスがあまりない日もあったが、それは一時的なもので、平均で見れば誤差のようなことが殆どだった。

しかし、今回はどうやら様子が違う。
原因を調べたところ、google検索のアルゴリズム変更らしい。

webmaster-ja.googleblog.com

 

このブログは発達障害をテーマに扱ったブログだが、どうやらgoogleには医療というカテゴリに認定されていたようだ。

公式ブログでも以下のように発表されている。

 

この変更は、医療や健康に関する検索結果の改善を意図したもので、例えば医療従事者や専門家、医療機関等から提供されるような、より信頼性が高く有益な情報が上位に表示されやすくなります。

 

僕は発達障害当事者ではあるが、医療の専門家でもなんでもない。
googleから見れば、信憑性の無い情報を発信している邪魔な存在となりえるのだ。

 

もはやこのブログはダメかもしれない

僕は、ADHDとしての経験談やノウハウ、自分なりに調べた結果をできるだけわかりやすく、僕なりの言葉で記事にしてきたつもりだ。

それは確かに自分の思い込みや考え方が反映されているものでもあるし、専門家ではないので、信憑性がないものかもしれない。

しかし、そもそも発達障害という障害自体がグレーゾーンで、どこからどこまでがそれにあたるのかわからないし、具体的な治療方法もなく、社会支援もないものだ。

だからこそ、僕のような素人が書いたようなブログでも、同じように発達障害に悩んでいる人から共感を得たり、読んでもらえたりしたのだと思う。

・・・でも、それはgoogle検索でたどり着いたからだ。

googleが方針を変えて、専門性が高い医療サイトを検索で優遇すれば、僕のような個人の考えに基づいたこのブログなんてひとたまりもない。

ブログと言うものは読んでもらえる、アクセスがあるから書くことが出来る。
おそらく多くのブロガーの人たちは同じように思っているだろう。

もちろん、このブログに広告を張っている以上、お小遣いが多少もらえるというのもあるが、それは微々たるもので、お金を稼ぐためにはブログを書く時間で他のことをしたほうがよほど効率がいい。

だからアクセスがあるということが、読んでもらえるということが、とても重要なのだ。
もし、誰にも読んでもらえないものになったら、それはもはや日記でいい。というか書く意味がなくなってしまう。

owaterune.hatenablog.com

同じ悩みをもっている人に向けて書いても、読まれないんじゃ書く意味なんてないから。

 

個人が発信できる小さな情報まで埋もれてしまうのは悲しいが

たしかにネット上には、間違った情報が溢れているし、コピペですませたような記事も沢山ある。
それは取り除かないといけないものかもしれない。

でも、それによって個人が発信できる小さな情報まで埋もれてしまうのもどこか違う気がするのだ。

綺麗で信憑性がある専門家が書いた情報しか上位に表示されなくなり、同じように悩んだり、考えたり、苦しんでいる人達が書いた記事が消え去るのは悲しい。

素人にしか書けないことだって沢山ある。発達障害当事者にしか書けないことだって沢山あるけどそれは評価されない。今後は。

まぁ時代の流れだと思って諦めるしかないか・・・。
今回が最後の記事になるかもれない。

 

以上、Googleから不正確な医療情報とみなされアクセス数が半減した話、でした。